実家の家族のアーカイブ

17年前の出来事

世間では1月17日と言えば阪神淡路大震災が起きて、多くの犠牲者が
出た日でもあります。
私も実際には震災を経験しているのですが、違った形で体験をする事と
なりました。
震災が起きる1日前に、母親が脳梗塞で倒れたとの連絡が入り、次の日
に大阪の実家へ帰ることになりました。
正月は子供を連れて家族で実家へ遊びに行っていたのですが、その時は
いつもと変らず元気でした。
それから3週間もたたないうちに、母親が倒れたとの話しがありとても
驚きました。
まさか正月に会ったばかりで、元気だった人がこんな事になるなんて、
人の人生は何が起こるかわからないと思いました。
帰る当日は、神戸で震災が起こったばかりで、飛行機が運行しているのか
心配だったのですが、何とか伊丹空港に着く事が出来ました。
でも、そこから先の交通機関はタクシーしかなく、タクシー待ちの人が
多く並んでいて、乗るまでに1時間以上かかり、やっとの思い出家に着
いた事を思い出します。
家の中は震災の影響で、食器棚の食器が落ちて割れた破片が家中に散ら
ばっていましたが、そんな事より母親の病状が気になるので、そのまま
病院に向いました。
数日病院で看病をして容態が落着き、後遺症は残るが命に別状がないとの
診断が出たので、安心して自分の家に帰りました。
その後母親は、リハビリの甲斐があって奇跡的に後遺症が残る事はありま
せんでした。
震災と重なって起きた出来事から早17年がたちましたが、この時期が
来る度に母親の病気の事と、病院で看病している間の余震のことが思い
出され、本当にみんな無事で生活している事が幸せに思います。

2012年2月15日 | コメントは受け付けていません。 | トラックバックURL |

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おとん

私のおとんはものすごく短気で亭主関白の、典型的な昔の人に多い性格の人です。
小さい頃はとても怖くて、いつもおとんの顔色を伺いながら怒られないように
毎日過ごしていた様におもいます。
とにかくおとんは中学生までは(義務教育)とても厳しく、高校になってからは
教育方針か、一切干渉はしませんでした。(会話は同じようにありました。)
子供を信じていたのでしょう。

仕事は自営業をしていて従業員はおらず、朝から晩は9時頃くらいまでは毎日
おかんと一緒に働いていました。
とにかくまじめな人で人付き合いがよく、家には毎日のように会社関係の人や
友達が来ていてとてもにぎやかでした。
おやじの交友関係の広さを見習わないといけません。

とにかく仕事以外では、野球が好きで野球チームをつくり毎週日曜日になると
出かけていました。
その度に連れて行ってもらい野球をやる姿をみていたので、いつの間にか自分も
自然と野球をするようになっていきました。
中学、高校と野球をやっていた私が、練習試合や公式戦があるたびに欠かさず試合を
見に来ていてその晩は良くても悪くても楽しそうに話していました。
とにかく野球暦は長く65歳過ぎまで現役でやっていたようにおもいます。

そんなおとんも今は75歳になろうかとしています。
昔は大きく見えたのが今はとても小さく見え年をとったのだとつくづく感じる
今日このごろです。
近くに住んでいれば休みの日にはたまに温泉に連れて行ったり、直ぐに親孝行らしき
ものはできるのですが、遠く離れた場所にいる私にとってなかなか家に帰ることもいかず、
今まで親孝行らしきものをした事がありません。
今は仕事をやめ、ゆっくりと老後をおかんとぶさいくな犬と過ごしています。

2012年1月24日 | コメントは受け付けていません。 | トラックバックURL |

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別れ 2

最後に自分の番が来た時、もうこれで兄貴に会う事も出来ないと思うと、
今まで我慢していたものが一気にあふれ出てきて、何十年と泣いた事が
無かった私ですが、人目も気にせず大泣きをしてしまいました。
しばらくは涙が止まらず、今まで溜めていたものがいっきに溢れでた様に
思います。
こうやって書いている間にもその事が思い出され、涙が出そうになります。

お別れの儀が終わり、葬祭場から火葬場までは車で30分くらいでのところにある
生駒山の飯盛霊園という所に行きました。
その飯盛霊園は小さい頃よく家族でワラビ取りに行った場所で、その頃は
まだできたばかりの時で、お墓も少なく自然がいっぱいあり兄貴と園内を
探検したり、走り回ったりして遊んでいたのを思い出しました。

火葬場に着き降りて見るとものすごく近代的な建物で、とても火葬場とは
思えないくらいの外観でした。

中に入ると異様な匂いが漂っていて、これが人を焼いた匂いなのかと感じました。
しばらくしてみんな炉の前に連れて行かれ、お経が終わると棺桶を炉の中に入れ
最後の別れをしました。
私は心の中で本当にこれで兄貴と最後なのだと思いその光景をじっと見つめていました。

それから2時間後昼食を済ませ、お骨拾いをする為火葬場に戻りホールに集合して
しばらくすると、そこに変わり果てた兄貴が横たわっていました。
まだ若く病気で亡くなった訳ではないので、きれいな形で骨が残って担当者の方が
説明をしながら、みんな骨を少しずつ拾い壷の中に収めていき、最後にほんとうに
きれいな形で残っているのど仏を担当の方が納め終了しました。
この後葬祭場に戻り式が終わったので、親戚一同を見送って家路につきました。

人と言うのは本当に儚いもので、死んだら終わりなのだなとつくづく感じました。
つらい事があっても生きていれば必ず良い事があるので皆さんも自分の命を
大切にしましょう。
本当に家族や友人、身近な人が悲しい思いをすると思います。

2012年1月24日 | コメントは受け付けていません。 | トラックバックURL |

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別れ 1

その日は通夜の為、葬祭場に泊まる事になっていました。
夕方になって親父の方の親戚が集まり、兄貴の友達や
会社の方々が沢山来てくれて、ものすごく交友関係が
広かったのだなとつくづく思いました。

昔から兄貴は、私と違って後輩や先輩に慕われていて、
常に人の先頭にたって何かをする人でした。
会社では、組合長をするくらい信頼がおける人材で、
何をするにもとにかく一生懸命でした。
昨年、下の娘が大阪で就職試験があり、前日には娘と
試験会場に下見について行ってくれたことがあり、
その日は夜勤で朝まで仕事をして疲れているはずなのに、
断らず面倒を見てくれたことを大変感謝しています。
私にとってそんな兄貴がとても頼りになる存在でした。

その日の晩は、父方、母方の兄弟が大勢集まり、夜遅くまで
昔の話に花が咲いていました。
ただ、おとんと、おかんは棺桶の前に座ったまま肩を落とし、
線香の火が消えない様に当番をしていた様子でしたが、
やはり自分の息子に先立たれたショックは隠しきれない
様子で、その場から離れようとはしませんでした。

私は一睡もできず次の日を迎えました。
いよいよ兄貴ともお別れの時が近づいて来て緊張感が漂ってきました。
お坊さんがお経を読み始め葬儀が始まり、みんな悲しみに
包まれている中、私は未だ冷静を保っている自分が怖かったです。
葬儀も終盤になり最後の別れの時に一人一人が棺桶にお花を
入れていく場面があり、私はその様子を見ている時に兄貴との
小さい頃から暮らしてきた事が頭の中を駆け巡り、今まで我慢
していた感情が込み上げてきました。

つづく・・・。

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兄貴の寝顔

その日は突然やってきました。

いつものように会社に出勤をして仕事をしていました。
携帯に電話がかかって来たので着信を見ると、
おかんからで、兄貴が亡くなったことを伝える為の電話
だと直感し電話に出ると、電話の向こうでおかんが泣きながら
「和春が今朝亡くなったわ。苦しまず息をひきとったで
顔をみても寝ているみたい。」

兄貴の死は前から覚悟はしていて、おかんと話をしていました。
私の家系は7のつく日に亡くなっている人が多いのです。
いとこのおじさん夫婦は、おばさんが37歳、おじさんが
47歳と言う感じで・・・。
入院して一ヶ月目の27日か、それを過ぎれば7月7日
頃だろうと予測はしていました。
不思議なもので、やはりおかんからの連絡を受けたのは
6月27日の事でした。

その日は慌てて準備をして実家へと向かいました。
兄貴は家に帰って来ていて、親父の部屋で寝ていました。
おかんが言っていた通り、本当に寝ているみたいで、
今にも起きてきそうな感じの寝顔でしたが、体に触れて
みると、病院で会った時の温もりは感じられず、冷たくて
硬くなった兄貴は本当に死んでしまったのだなと、そこで
初めて実感しました。
不思議とその時の私には何故か悲しいと言う感情は
ありませんでした。

次の日の昼、兄貴の亡がらを葬儀場の方が迎えに来て私たち
家族も一緒に葬儀場に向かいました。
そこで、映画「おくりびと」の1シーンと同じ様に着替えをさせ、
納棺が終了しました。
何もかもが始めての体験で、何をしていいやらわからないまま
時間だけが過ぎていきました。

次回につづく・・・・。

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不思議な体験

とにかく兄貴の容態は、予断を許さない状態で、
お袋と私は病院に泊まることにしました。
一日目、二日目と容態は変わらず、3日目から
少し状態が落ち着いてきたので、自宅待機
となりました。
落ち着いたといっても人工呼吸器と頭の中は
常に出血しているので、チューブを通して
血を抜いている状態です。

入院して1週間が過ぎ、兄貴の状態も意識は
戻りませんが、落ち着いているので一旦私は
九州の自宅に帰りいつもの生活にもどりました。

兄貴が倒れて一ヶ月が過ぎようとしていた時の
事でした。
今から話す事は、皆さんは信じないと思いますが、
本当に起きた出来事です。

その日の夢は、病院で寝ている兄貴の横で看病
をしている自分がいました。
起きるはずが無い兄貴に「おにー、おにー」
と声を掛けると、目を開けて「おー、のぶかぁ~」
と返事を返してくれました。
それから起きあがって、いとこの兄貴の所に歩いて
行った所で目が覚めました。
今までわたしは、兄貴の夢自体見た事がありません
でした。

その出来事をすぐに実家のおかんに電話で話したところ、
おかんは「兄貴が会いに来たんとちゃうか。」
と言ったので、その時は「そやなぁ~」と何気
ない会話をしたのを覚えています。
でも、その夢がこの後の不思議な体験につながる
とは思ってもいませんでした。

休みが終わり、いつもの通り会社に行き仕事をして
いると、突然携帯がなり、着信を見るとおかん
からの電話でした。
その時いやな予感がして電話を出ると、兄貴が
亡くなった知らせでした。
私は昨日の夢のことを思いだし、鳥肌が立ちました。

今までテレビとかでよく、死ぬ前にその人が
会いに来る話がありますが、全然信じていませんでした。
でも、実際に兄貴が自分に会いに来てくれたと
思うと、とてもうれしかったです。

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一本の電話

 「大阪国立医療センターの酒井と申しますが、
和春さんの弟さんでしょうか?」
「はいそうですが」
「お兄さんが、危険な状態なので直ぐに来てください。」

それは5月26日の朝、いつも通り朝礼が終り、
仕事の準備をしていた私にかかってきた電話でした。
はじめは間違い電話だと思い、
「どちらにおかけでしょうか?」と聞き返しましたが、
帰ってくる言葉は同じで、そこで兄貴の身に何かが
起きた事に気付きました。

その日の内に帰りたかったのですが、仕事の都合で
次の日の一番の飛行機に乗り、大阪に向かいました。
移動中でもまだ気持ちの整理がつきませんでした。
2週間くらい前に電話で話したばかりで、その時は
いつもと変わりなく話していたのですが・・・・。

空港に到着した私は、直接病院のほうへ向かいました。
空港から病院まではバス、電車を乗り継いで40分
くらいの所にあります。
先に行っていた両親と、病院のロビーで待ち合わせを
して病室(I C U )に向かい、そこで眠っている
兄貴に会いました。
その姿は良くテレビとかで見る光景で、人工呼吸器
を着け心電図の波形が弱々しく波をうっていました。

しばらくして担当医から、家族全員部屋に呼ばれて
説明がありました。
とにかく兄貴の病状は脳梗塞・くも膜下出血・動脈流
全てが頭の中で起きていて、手の施しようが無く
致命傷になったのが、出血した血液が脳幹を押しつぶして
いた事でした。
助かっても植物人間か寝たきり状態になる事を告げられ、
おかんはその場に泣き崩れてしまいました。

健康状態の人だと直ぐに臓器提供となる所ですが、兄貴
の場合は、血液中に細菌が繁殖していて、それが除去
されない限りは提供ができませんでした。

続きは次回のブロクで・・・。

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